HOME » 油職人今昔話
(4)湿式多板クラッチ
E.G.S[LIMITED]で生まれるハイパワーやトルクを受けるエンジン腰下に何かせねばと考えていた。エンジンオイル添加剤を創ってみっかで開発をスタートさせた。
少し時間を戻してZ2のクラッチ滑りを思い出して欲しいんだ。この時使った添加剤はパワーが出たり、燃費が良くなったりするものではなかった。若干レスポンスが良くなる程度のものだった。クラッチの滑りを犠牲に出来るような代物ではない。
Z2から抜いたエンジンオイルを指に浸け、指同士を擦ってみた。今まで使っていたエンジンオイルとは違うサラサラした感じだった。これでクラッチが滑ってしまうのかと思った。
だったらクラッチスプリングを強化すれば良いなんて、おいらは単純に考えない。クラッチをバラしてクラッチ板をいじくりまわした。合わせてみたり剥がしてみたり、擦り合わせてみたりした。
何の答えも見つけられなかった。
開発はフリクッションロス低減とクラッチ滑りとの戦いだった。おいらが知りうる限りの素材を使い試作とテストに明け暮れた。クラッチの滑りの分岐点が低過ぎて、おいらの求めるエンジンオイル添加剤にはほど遠かった。
これを機に原点に戻り考えることにした。そして自然科学を取り入れることにした。
クラッチ板にどんな自然現象が起きてるか、そして、その自然現象がどう利用されているかを考えた。
答えが見つかったと言うより、既においらは見つけていたことに気付いたんだ。そしてエンジンオイル添加剤E.G.Aが誕生するんだ。
今リリースしている全商品に共通しているモノが自然科学だ。やっぱ自然は偉大である。ずーっと考えていた訳ではないが長い道程だった。
エンジンオイル添加剤は出来たがエンジンオイルを創る気は全くなかった。エンジンオイル添加剤があれば十分と考えていた。
独り言:大企業から重要機密がハッキングされ盗まれているらしいのだが、大企業に限らず何で重要機密が入っているコンピュータをネットにつないでいる理由が解らない。盗まれたくなかったら独立させればいい。ファイアーウォールなどどんなガードを駆使しても所詮人間が創ったモノ、人間が破ったって不思議は無い。重要だと思うなら引き出すのに時間を掛けろだ。重要データ引き出す手続きをアナログにするのが一番かな?
(3)ほったらかし
実はE.G.S[LIMITED]の商品化の前にC.P.Oが出来ていたのだ。
ある販売店にテスト依頼をしていたが、机の下に約一年半ほっておかれたんだ。今考えると勿体無い話しである。
新参者であり、実績も無いおいらの創ったモノを信用してくれってぇこと事態思い上がりもいいとこ、販売代理店が忘れてしまったことを責めるつもりは全く無い。そんなこともあり、E.G.S[LIMITED]の商品化は誰にも頼らず行った。
EGSハイパースプレーとABSOをリリースしていた。次期商品を考えた。チェーンルブの試作をした。長年の蓄積があったんで試作品は直ぐ出来た。ところが、前述したようにほったらかしにされていたので、発売が大幅に遅れてしまった。
きっとおいらの運命は何でも自分でやれなのかもしんねえ。
チェーンルブはスプレーグリスタイプが多く販売されていた。粘りがあるので埃を吸い黒く汚れる。
話しはマッハV750H2に乗ってた頃、おいらのバイクではないが、バイク屋に修理待ちで置かれていた古いバイクを何となく見ていた。
リアスプロケットに釘付けになった。リアスプロケットの歯が打ち寄せる波の様に変な減り方をしてる。バイク屋のアンチャンにこんな減りかたすんのって聞いてみた。メンテナンスの良い人でも最後にこうなるって言うんだ。走行距離を聞いてみたら遅い人でも7000Km〜8000Kmで交換する。メンテナンスをあまりしないと早くて3000Km〜5000Kmで交換だ。ってぇ事だ。
当時おいらがやってるチェーンのメンテナンスはチェーンをグリスで煮たり、エンジンオイルを走行後に塗布したりするやり方だ。グリスで煮るのはチェーンがエンドレスになってからは取り外しが面倒臭いので止めた。
余談だがZ2には高砂のエンドレスチェーンがついていた。ただZ2にはチェーンに注油出来る油タンクがついていた。確か手動だったような?自動ではなかったような?おいらのZ2は下取りに出すまでチェーンとスプロケットは交換していない。
下取り時の走行距離は25000Km。この時、おいらがチェーンにしたことは気にも留めなかった。留めていたらC.P.Oが出来ていたかもしれない。仮定の話である。
帰宅後いつものように何故何故問答がおいらの頭の中で始まった。チェーンの構造やスプロケットとの関わりなど各部の解析を行ってみた。答えは見つからなかった。
この時、チェーンに付いてまわる或る事を見逃していたんだ。見た目では絶対に解らない事だ。チェーンルブを開発する理由が磨耗を低減させること以外、未だ有ることにおいらは気付いていなかったんだ。
独り言:おいらは小さい時から人見知りで対人恐怖症で赤面症。今は少し良くなったが基本的に変わっていない。今でも克服出来ないでいる。一人で何かやってるのが好きだ。そして限界を試したことは無いが、いつまでも一人でいられる。困ったもんだ。
(2)道路事情と添加剤
少しだけ時代(1960年代〜1980年代初め頃)をさかのぼった話しになるが、サスオイルに傾倒して行ったのは当時の道路事情がある。
舗装道路が今のように多くなく、ツーリングに行っても100%オンロードを走れる訳ではなかった。オンロードを走ってたかと思えば急にオフロードになり、転倒するヤツが結構いた。オンオフの境目には細かな砂利があって転倒を誘うんだ。仕方ないって言えばそれまでだが、何とか転倒を阻止出来ないかを始終考えていた。
簡単に答えは見つからない。只、タイヤの責任ではないだろうと思った。
サスで解決出来るかもしれないって何となく思った。悲しいかな現在のABSOが創られる1990年代まで本当の解決策は見つからなかった。
オイル添加剤の開発は慎重に行った。オイル添加剤ではないがEGSハイパースプレー(フッ素系樹脂コーティング剤)は一般的に満足がいくモノでも、おいらは満足していなかった。
EGSハイパースプレーは新しいジャンルの商品(直接的燃焼室内コーティング)で今まで、この手の商品は存在していなかったと思う。(オイルに添加するものはあった。)と言うより、エンジンが新品の時、誰だって圧縮が漏れてる何ざぁ考えるはずもない。
毎日おいらはエンジンの燃焼室内にトリップしていた。何をすればおいらの悩みを解決させることが出来るんだと自問自答していた。当時も今もエンジンオイル添加剤類はフリクッションロスをとることを主にしている。もしフリクッションロスが本当に低減されるなら燃費はかなり低減されるはずなんだが、思ったほどではない。燃費の一割や二割、アクセルワークでどうにでもなることだ。
エンジン自体の効率を上げることが添加剤と言われるモノの使命かもしれないと考え始めていた。効率を上げればパワー、トルクを上げる事が出来、尚且つ燃費までも改善出来ると考えた。
そんなある日、頭の中に稲妻の様に閃光が走った。
今までズーっとフッ素系樹脂の様な固形物質やフッ素系ガスばかりを念頭において考えていた。
この閃光は液体を使えだった。
液体だったら形も自在に変化させられる。エンジンの圧縮圧力や爆発の圧力程度で変形することもない。燃焼効率を上げ、尚且つ燃焼室内を十分に潤滑出来る事。
E.G.S[LIMITED]の誕生である。E.G.S[LIMITED]の誕生には絶対条件として、燃焼室内で燃えない油であることだ。色んな油を試したがイマイチなんで創ることにした。燃えない油をだ。
独り言:何で経済が上向かないんだろう?
コストが一点に集中しコスト分散が出来ない構造になっているからかもしれない。コストが低く利益が出る構造のモノが受け入れられる世の中になってしまったんだから仕方ないのかもしれない。
アメリカのストやデモを見ていて確信した。ストやデモをしている人々が今の生活を自ら変えることが出来ればと思うが、無理だろう。世の中で起こったことを全てテーブル上に置いて、何が今の経済状態に追いやったのかの原点を見つければ答えは簡単に見つかるかもしれない。
真実は一つである。
(1)人生最後の転職
仕事の忙しさは一向に解消されない。ある日バイクで通勤中胸に激しい痛みを感じ、途中20分ほど休んだ。回復してきたので会社へ向かった。もち遅刻である。
このままだと死んじまうって思った。何も考えず、本能的に退職願いを書いた。かなり引き止められたが、何とか辞める事が出来た。かみさんに辞める事を話したのは一週間前だった。かみさんはおいらの体調不良を察していて、全く反対はしなかった。命あってのものだねだ。
手前ミソになってしまうが、おいらはかみさんから優しさと思いやりを学んだ。本当によく出来たかみさんで感謝している。今もおいらを陰で一生懸命支えてくれている。仕事に専念出来るのも、今のおいらがあるのはかみさんのお陰だ。有り難う。本当に感謝してるよ。これからも宜しく。
約二年位のんびりと暮らした。何も考えずに辞めたので、その後のことは全く考えていなかった。何かしないといかんと思ったが、何も思いつかない。
1人静かに色々考えた。
小さい時から色々な人にお世話になって来た。エンジン付きのモノから多くの事を学ばせてもらった。そろそろ、世の中にお返しをしなきゃいけねえ歳になって来た。おいらにしか出来ないことをやろう。そうだ油をやろう。油を本気で考え、誰も創ったことのない油を創ってみようと思った。
一番得意な二輪の油をやろうと決めた。二輪乗りが欲しがるモノではなく、二輪乗りが悩んでることを解決する油を創ってみようと思った。
フッ素系樹脂(デュポン社の商標登録ではテフロンと呼ばれ、商品例としてはテフロンコートされた焦げ付かないフライパンがある。)のシリンダーコーティング剤を手がけた。或る大手企業の知り合いの化学者に何回か試作してもらい、試作が出来るとテストに明け暮れる生活が続いた。その後、色々な方の協力で、何とか商品化出来た。
商品名はEGSハイパースプレーだ。(3)抵抗や(5)機械加工で述べた燃焼室内の潤滑と圧縮漏れをテーマにした商品である。
当時(今も?)添加剤は何となく効いているとか、宗○(神頼みってぇ意味で言ってるようだ)のようなものだとか抽象的(気持ち)な表現をされていた。機能商品ならハッキリ体感出来なきゃ意味がないと思った。
この化学者からフッ素系のモノを学ぶにつけフッ素系の限界を感じていた。塩素系であることも引っ掛かっていた。コーティングにかかる手間も気に入らない。悶々とする日々が続いた。
フッ素系が良いか否かは、おいらが答えを出さずとも歴史が答えてくれる。良ければ必ず残っているはずだ。エンジンオイルに添加するものは、ある理由でデュポン社が禁じているので対象外、残るってぇのはフライパン等のコーティングモノのことだ。
フッ素はガス状になった後、地球上に存在するものとして最も炭素と結び付き易いと言う性質がある。ガス状にしてエンジンオイル等に混ぜるとクランクケース内に存在する大小の炭素と結び付いてしまう。
稀にであるが、この性質が炭素と炭素をくっ付ける接着剤となり、オイルポートを詰まらせたりと悪さをするんで要注意だ。ってなことでEGSハイパースプレーは最初から大きさを決定出来るフッ素樹脂を使うことにしたんだ。
EGSハイパースプレーを例えばエンジンオイルに約10秒噴射して混ぜるとバイクはクラッチが滑って前進しなくなる。フッ素系樹脂は氷の次に摩擦係数が低い物質なんだ。だからEGSハイパースプレーのエンジンオイルへの添加を禁じている。
並行してフォークオイル(ABSO)をリリースした。これは市場に受け入れられた。商品開発に自信がついた。
でも、現在のサスオイル(ABSO)とはかなり違うモノだった。
独り言:最近テレビが面白くない。興味本位な内容のように感じるからなのか?なぁ〜んかつまらない。夜中はどのチャンネルも通販ばかり。おいらの友人で地デジを切っ掛けにテレビを見るのを止めたヤツが結構いる。
(6)無鉛化
ガソリンが無鉛化され、エンジントラブルの報告があった。
最初はスパークプラグのカブリトラブルだったが、後に排気バルブ関係のトラブルがほとんどになった。オイルでは解決出来ないトラブルだ。
このアメリカの汎用エンジンにはACやオートライトやチャンピオンのスパークプラグが使われていた。おいらは個人的にレース用スパークプラグとしてアメリカのチャンピオンを使っていた。だがどう言う訳か理由は忘れたが、この時、チャンピオンの技術屋(仕事柄懇意にしていたのだが)を呼ばず、NGKの技術屋を呼んだ。
彼とのやり取りはおいらにスパークプラグの知識と言うより、貴重な裏表を教えてくれた。NGKの技術屋さん有り難うございました。
当時、有鉛から無鉛に変えるとスパークプラグ温度が極端に下がるのも特徴だ。スパークプラグがカブリ、不調が各地から報告され、対応に追われた。対策は熱番6を標準としていたスパークプラグの熱番を何と2にすることだった。
それから、従来スパークプラグの焼けの判定をしていた焦げのパターンが全く使えなくなった。茶色く焼けないのだ。
オクタン価をコントロールする四エチル鉛はバルブの潤滑も行っていた。その潤滑剤が無くなってしまったんだからバルブの減り方は半端じゃない。おいらの仕事で扱っていたアメリカのエンジンなんざぁテストベンチでエンジン始動後20分?も経たないうちにエンジンはストップ。二度とエンジンは始動しなくなる。
排気バルブシートとバルブガイドの摩滅によって圧縮漏れを起こし、再始動が出来なくなってしまう。
ところがである。アメリカでは日本でおこるトラブルは全くおこっていないとのことだった。
そんなバカな。
アメリカの会社には言葉でどんなに説明しても理解してもらえない。大好きなアメリカが嫌いになりそうだ。話しになんないんで上司がガソリンのサンプルを持ってアメリカへ出張した。
この上司、英語はペラペラで文科系の大学出だが独学で整備士免許を取った努力の人である。車が好きで軽い整備は自分でやる。とにかく色んな意味で素晴らしい上司であった。
答えが出た。アメリカではガソリンを運ぶ時、有鉛、無鉛の区別をしないで運ぶそうだ。
全く適当なヤツらだ。
有鉛を運んだタンクローリーが有鉛を配達した後、タンク内を清掃することなく無鉛を積み込み運ぶんだ。つまり、前に運んだ有鉛がタンク内に若干残っていて、無鉛をタンクに入れた時点で有鉛になっているってぇことなんだ。
有鉛から無鉛にの過渡期で、この当時有鉛と無鉛が併売されていた。だから何となく解るんだが、おおらかな国民性が成せることなのか・・・・・
日本では有鉛と無鉛はタンクローリーそのものを分けていて、無鉛は100%無鉛なんだ。
余談だが、アメリカの技術屋が日本の無鉛に取り組む姿勢に感心していたってぇんだから笑っちまう。しっかり頼むぜアメリカさん。
アメリカの会社も本気でバルブトラブルに取り組んでくれた。バルブトラブルは焼結合金を使うことや材質変更で解決して行った。
熱番2のスパークプラグはアメリカで調達が出来ないとのことで、カブリは解消出来ず、しばらくの間、日本にエンジンが入荷した時点で熱番2のスパークプラグに交換する作業が続いた。スパークプラグのカブリは燃焼温度を上げることで解決していった。
このアメリカさんとの無鉛有鉛のやり取りで、何か問題を解決したい時、最低でも同じスタートラインからスタートしないと、お互いの思い込みで問題は中々解決しないってぇことを学んだ。
独り言:最近地震が多い。何がおっかないって地震ほどおっかないものはない。クワバラクワバラ・・・・・あ〜あっ又地震だ・・・・・地震、親父、雷、火事・・・・・怖いもの順
(5)機械加工
エンジンをオーバーホールしてピストン側面を見る度に、ピストンとシリンダーのクリアランスがゼロにならないかと単純に思った。
もちクリアランスをゼロにするなんざぁ出来るはずもない。でもピストン側面(圧縮漏れのカーボンの跡)を見ると思ってしまうんだ。
カムシャフトとフランジのクリアランスもクランクシャフトのビッグエンドとコンロッドのクリアランスなど各部を見てると気が狂いそうになる。機械加工の限界である。
機械加工で限りなくクリアランスをゼロにすることは可能だと思うが、熱膨張と言うものに阻まれてしまう。だがクリアランスを詰めることを目標にすると、エンジンは何か違う方向に行ってしまうような気がした。
でも、出来るはずも無いクリアランスゼロが気になっていた。
或る時、磨り減ったエンジンをボーリングに出した。出来上がったので取りに行った。皆も知っての通りホーニングによるクロスハッチがシリンダー内面に綺麗に刻まれていた。この傷の谷間にオイルが滞留してシリンダーとピストンリングの潤滑を行っている。この程度のオイルで潤滑は大丈夫なんだろうか?と素朴な疑問がおいらの頭の中に付いて周る。でも内燃機関が発明されて以来燃焼室内の潤滑はズーっとこのやり方である。
ピストンの潤滑もエンジン内部の構造を見ると気まぐれ潤滑である。
ピストンは何故首フリ運動(スラップ運動)してしまうんだろう。
ピストンとシリンダーの表面にオイルは付くが、ピストンとシリンダーの隙間にどうしてオイルが滞留しないんだろう。効率から言ってエンジン温度は何でこんなに高いんだろう。
エンジンをオーバーホールする度に今のエンジンって60%〜70%しか稼動してないんじゃないかと思ってしまう。勿体無い話である。
クリアランスを詰めれば詰めるほど抵抗が大きくなるかも?クリアランスを大きくとると抵抗は?メリットを活かしデメリットを埋めるモノは何?
独り言 :予てから頼んでいた1960年に放映されてた「ララミー牧場」のDVDが届いた。当時のことが走馬灯のように思い出される。
真面目な牧場主のスリムと流れ者で後にスリムに雇われるジェス・ハーバーが織り成す西部劇だ。おいらもだがスリムよりジェスの方が好きだった。級友達もほとんどジェスのファンだった。このジェスを演じたのがロバート・フラーだ。日本に何回か来ている。
今改めてDVDを見るとスリムもカッコイイと思った。
確か「ララミー牧場」からだと思うが映画評論家の淀川長治がドラマの前後に解説をするようになった。にぎにぎおじさんのスタートだ。淀川長治・・・・・亡くなられて大分経つなあ・・・・・
(4)やっぱ自然科学
相変わらず仕事は忙しかったが、本を読む時間はあった。出張の飛行機や列車の中で本を読み耽った。
この当時、自然科学の本を数多く読んでいた。地球上に起こる様々な現象や種の起源が面白く興味をもった。その他どう言う訳か法医学に興味が沸き法医学の本も読んだ。法医学の専門書は高価だったので神田の古本屋街で購入した。
筋肉や靭帯や血液の流れが興味深く印象に残った。筋肉や靭帯や体液の関係ってサスに似てると思った。
自然科学とは関係ないが、会社の側に営業倉庫が数多くあった。そこには荷物を満載したトラックから倉庫へ荷物が搬入されていた。搬入時に使われていたのがローラーコンベアーだ。何故か気になった。ボーっとローラーコンベアーの動きを見ていると同僚から「仕事仕事」と促され我に返った。
自然科学はおいらに素晴らしい考え方を与えてくれた。地球で起こる自然現象をミカタにつけることだ。そしてバランスと調和だ。バランスが崩れればネガティブなことが起こる。例えば、二酸化炭素の量がバランスを崩し多くなったら何が起こるのか?現在答えは出ているはずだ。
車は人類に便利を与えてくれたが、大気を汚染したのは事実だ。最近聞かなくなったが光化学スモッグ(車だけの責任ではない)は大気汚染の典型的例だ。地球にしっぺ返しされたんだよ。
地球上で起こっている色々な現象や作用は太古の昔から元々あったんだ。
近年ニュートンが万有引力を発見したり色んな人達が色んな現象を発見して理論付けしているだけだが、発見して理論付けする事自体凄いことだ。
ライト兄弟が飛行機を飛ばしたのとちょっと違うかもしんねぇが、でもライト兄弟が創ったフライヤー号は各部を見ると、やはり自然界の掟に沿っている。機体やエンジンには、揚力、作用反作用、遠心力、etc・・・・・
とにかく自然科学の本を読めば読むほど、自然を甘く見るなと教えてくれる。そして自然を味方にしろと言ってるような気がした。
唐突だが、飛行機は絶対落っこちる。船は絶対沈む。車は絶対事故をおこす。ナイフを使えば必ず怪我する。バイクに乗れば必ず転ぶ。歩いていればつまづく。消しゴムって良く消える時と良く消えない時がある。
商品は商品自身を語るべき。平等なんて存在しない。地球を壊すのが科学なら、地球を守り再生するのも科学。
絶対と呼べるものはこの世には無い。絶対が在るとすれば自然界の掟である。
運命を知ることは出来ないが、運命は決まっている。
人の人生の八割が運で、後の二割が才能と努力である。
真実は一つしか存在しない。いつの世でも真実とは否定されるものだ。
人類を救うのは海。プラスマイナスゼロの法則が存在する。人間がコントロール出来ないモノを絶対創ってはならない。等々・・・・・って、いつも思ってる。
独り言 : この間中学時代のクラス会に行った。当たり前だが皆年取っていた。
話題は健康状態で夫々が自分の身に起こっていることのお披露目だ。お前もか俺もだよって、安心したり、不安になったりの光景があちこちに見える。
先生も元気だが会場に来るのに道が分らず、もの凄く迷ったらしい。先生自ら「ボケてきたみたい・・・」と言っていた。
一番深刻だったのは介護で、介護をしている人は心身ともにズタズタになっていた。
おいらも母親の介護で一時期心身ともにズタズタになったが、おいらのところに出入りしている若い連中が、おいらを外に連れ出して気分転換をさせて助けてくれている。
介護で疲れ果てている人に何かしてあげたいと思っても心が病んでいるのか中々難しい・・・・・
介護ではないが旦那が病気でサポートしている人も痩せ細っていた。この人はスタイルが良く、若い時ミニのAラインの黄色のワンピースが良く似合う人だが、体重は変わってないと言うが、見た目がカリカリで痩せ過ぎに見えた。元に戻るといいなと思っているんだが・・・・・
(3)抵抗
忙しい仕事をこなしながらも、色んなことに興味をもっていた。
アメリカの小型エンジンを扱ってた関係からスパークプラグメーカーや石油メーカーや添加剤メーカーの技術屋と話せるチャンスに恵まれたんだ。だが、石油メーカーや添加剤メーカーとやり取りすればするほど、おいらの頭の中は疑問だらけになった。
疑問に思ったのは「抵抗」についてである。フリクッションロスってぇヤツだ。
おいらはバイク乗り、抵抗を取ることと湿式多板クラッチに対する影響が気になった。
カワサキのZ2に乗っていた頃の体験だが、或るアメリカの有名な添加剤を使ってみたんだ。0〜120km/hまではスムーズで、これが添加剤の威力かと思った。120km/hから更にスロットルを開けた時だった。クラッチが滑り逆に車速は落ちて行くではないか。焦った。
帰宅後直ぐエンジンオイルを抜き、オイル交換を行ったらクラッチの滑りは収まった。
貴重な体験だった。湿式多板クラッチ内装のバイクにフリクッションロスを低減することは難しいのか?将来の課題が出来た瞬間である。
余談になるが、このZ2、ファクトリーモニター車なんだ。2ストを主に乗っていたんだが、4ストの重量車に乗りたくなった。ホンダのCB500Fなんざぁコンパクトで乗り易そうと思っていた。行きつけのバイク屋に相談に行った。確か当時CB500Fは36万円位だったと思う。
ところがである。バイク屋のアンチャンが噂でしかなかったZ2に乗ってみないかと言ってきたんだ。「ええーっ」Z2(海外でZ1は販売された)って発売されるの??????
それもファクトリーモニターってぇんだから面白い。モニターの条件は約一年間毎月一回カワサキ東京営業所に集まり意見交換を行う。車両価格は特別ディスカウントが適応され確かCB500Fより安かった。もち即答「お願いしまぁ〜す」。
日本では誰も乗っていないZ2に乗れるって「たまんねぇ〜ッ」ワクワクドキドキだ。
このモニターの話しは改めてしたいと思う。
Z2にしばらく乗っていたが、非力なパワーのZ2に嫌気がさしてきたんだ。乗り換えようと販売店に次期バイクの相談に行ったんだ。ボアアップしてみないかって言われた。ノーマルイズベストが心情のおいらには抵抗があった。金もかかるしと思っていた。バイク屋のアンチャンがどう言う訳か部品代だけで良いって言うんだ。断る理由が無くなった。
バイク屋のアンチャンとおいらの二人で秘かにボアアップ作業を始めた。このバイク屋のアンチャンには大変お世話になった。色々と貴重な体験をさせてもらった。感謝すると共に有り難うございました。
ヨシムラの860キットをぶち込んだんだ。この試みが現在リリースしている商品の開発につながって行くんだ。この開発のキーワードは前項(2)に掲げた「振動」である。
独り言 : DVDソフト「ニキータ」ってぇTVドラマがリリースされた。
主演は女優マギーQ。マギーQはミッション・イン・ポシブル2に出演していたのを見て以来、ファンになってしまった。
アンジョリーナ・Jに続くアクション女優だ。アンジョリーナ・Jもトゥームレーダーを見て以来、ファンになった女優の一人で、彼女の出演する映画は大体観ている。
俳優も女優もアクション派が好きだ。 男優はマックィーン以外未だいない。
(2)振動
仕事でアメリカの小型汎用エンジンを扱っていた。或る時アメリカ出張の命令が下され、アメリカへ出張することになった。
アメリカではエンジンに関することを幅広く学んだ。特に振動について学べたことは、おいらにとって最大の収穫だった。振動をストロボを使って解析したり、振動で現在の回転が簡単に判るピアノ線タコメーターだとか、初めての体験をさせてもらった。
このエンジン、自信の表れか純正オイルが無く、どんなエンジンオイルを使用しても可、粘度指定だけで、他は何も問わないんだ。現在はどうかは分らないが、凄い考え方だ。だが油量チェックだけは絶対だった。
余談だが、ハーレーの工場が側にあって行きたかったが、おいらが休めるのは土曜と日曜。ハーレーの工場も土曜と日曜が休み。ってな訳で残念だが、訪ねることは出来なかった。当時、ハーレーの工場の正門は趣のある木製だった。
バイクは振動の集合体と位置付けたのも、アメリカ出張がなければ無かったかもしれない。
他のヤツらより、安全確実に速く走れることばかし考えていた。以前からエンジンよりサスだと考えていた。色んな油を試し、コーナーで吹っ飛びそうになったこともしばしばだった。
何回となく危険な目に遭ったが、サスオイルの重要性を確信した頃でもある。よく使っていたテスト車両はカワサキマッハV750SS/H2と言う、じゃじゃ馬で知られる2サイクル3気筒空冷エンジンを搭載した異色のバイクである。このバイクには5段階調整式のステアリングダンパーが標準装備されていた。何の役にも立たない代物だった。いつもダンバーの位置を0にしていた。普通何かを補おうとすると余計なものを付加してしまう。つまり、このバイクで言うなら「操縦性がイマイチなんでステアリングダンパーを付けたんだ」と未完成な己の姿を露呈しているようなもんだ。シンプルイズベストがおいらの信条である。
油の種類以外で試したのが油面である。油面に何故興味を持ったのかである。
当時、一般的にどう言う訳か硬いサスが好まれていた。硬い動かないサスが良いのなら、何故サス自体にあんなにストロークがあるんだろうって単純に思ったんだ。そんなに硬いサスが良いならメーカーが市販車に取り入れてるはずだ。簡単に言うと、ご存知のようにサスダンパー無しでスプリングだけだと弾んだサスはなかなか弾みが収まらない。早期に弾みを収めるためオイルがダンパーが使われるんだ。スプリングは硬くすればするほど反発も大きくなる。だからダンパーも強くしなきゃなんねぇんだ。益々サスは硬くなって動かなくなる。
メーカーは相も変わらずストロークのあるサスを作り続けている。もし硬いサスが優れているならメーカーがやってることは、どうしても理屈に合わない。疑問だらけだ。
おいらは何度か硬いサスを試してみたことがある。スプリングやオイルの粘度を硬くしたり、油面を上げてみたりした。結果、何故硬いサスが良いんだか、おいらには理解出来なかった。
その後、油面や粘度の違うオイルを試して、ある答えを導き出したんだ。だが、当時その答えを理論付けることが出来なかった。その答えも未だ不完全なものであつた。そして、本来の仕事が忙しくなり、その答えを詰めることが出来なくなった。
只、ふと思ったのはサス内で発生する泡をコントロール出来れば・・・・・・である。
バイクは何故か大きくなっていく。バイクはコンパクトでハイパワーなエンジンを載せたモノがベストといつも思っている。何でこんなに巨大化していくのだろう。不思議だ。ホンダの1000cc6気筒、カワサキの1300cc6気筒・・・・・
独り言 : アメリカから電子マガジンが届いた。中身が見れねぇ。東京都立産業技術高等専門学校(旧都立航空工業高等専門学校)の先生で、おいらん家に出入りしている電気にメッポウ詳しいヤツがいる。ヤツがおいらん家に来た時に電子マガジン(CD)の状態を見てもらった。壊れてますよだってさ・・・・・おいらは電気関係に弱いんだよ・・・・・トホホ・・・・・アメリカの発行元に再発送を頼んでいる・・・・・トホホ・・・・・速く見てぇ・・・・・
(1)切っ掛け
整備専門学校を卒業後、日産のデーラーに就職した。毎日が天国だ。好きな整備三昧の日々だ。
大分仕事に慣れてきた頃、バイクで通勤していたおいらに先輩が、一生懸命仕事してくれているんで会社のエンジンオイルを使って良いよって言われた。ノンキな時代だ。調子こいて走行500km毎に交換していた。
今で言う安いオイルを早めに交換ってぇヤツだ。
何回か交換しているうちに或る事に気付いた。オイルの汚れは無くなったが、性能に何の変化もないんだ。一般的(おいらが使ったオイルは会社で一番良いオイル)なオイルを早めに交換しても本来そのエンジンオイルが持っている性能以上のものを発揮する訳がない。冷静に考えれば当たり前の話だ。
以後会社のオイルは使わなくなった。おいらがエンジンオイルに更に関心を持ったのは、日産のディーラーを退社し、或る輸入商社にいた時に出会ったアメリカの2サイクルエンジンオイルだ。
レースで使っていたのだがカーボンやスラッジが全く発生しないんだ。色々な2サイクルレーシングオイルを使ってきたが、このオイルを使った後、エンジンをオーバーホールした時にあまりのエンジン内部の綺麗さにショックを受けた。
このアメリカのオイルは現在輸入されていない。
その後(1980年代半ばになって)、油の可能性を確信したのはフランスの2サイクルエンジンオイルに出会った時だ。
こいつは凄かった。
カーボンやスラッジがどうのこうのなんてぇレベルじゃない。パワー、トルク、燃費が一気に向上するんだ。
このオイルには本当にビックリさせられた。
数字で表せる燃費はスズキ500ガンマでの記録だが、純正オイルだと13Km/Lで、このフランスのオイルを使うと24Km/L走るんだからビックリだ。
一緒に走ったヤツ以外、この話しても誰も信じてくれない。事実なのに何故なんだろう。このフランスの2サイクルエンジンオイルの他に同じメーカーの4サイクルエンジンオイルを試してみたが、2サイクルエンジンオイルほどではなかった。
んだが、1980年代中頃の鈴鹿8耐予選でスズキGSX-Rに乗る有名なライダーから、あと500rpm上が回ってくれたら予選通過が出来るんだけどって相談されたんだ。んじゃこのオイル使ってみぃってフランスの4ストエンジンオイルを必要量渡したんだ。何と1000rpmも上が回ってくれ楽々予選を通過出来たとお礼と共に報告して来た。
このライダーモチ完走したんだが「何か良く解らないが、このオイル使ったら疲労感が少ないんだ」って言うから、バイクの振動が少なくなってねぇか聞いてみたんだ。
このライダー曰く「そう言えば確かに今までより振動が少なくなっている」って言ったのが、油の可能性をおいらに教えてくれた一言だ。
この2サイクルエンジンオイルを使ってみての正直な感想は、今まで使っていたオイルって何だったんだろうって一人思った。残念だが、今このフランス製オイルは存在していない。
元々油類に興味があって、数え切れない位のありとあらゆる油を使ってきた、おいらにとってこのフランスのオイルにカルチャーショックを受けた。
この当時サスオイルはおいら独自のモノを創っていて、おいらの周りのヤツらにはもの凄くウケていた。ってな訳でサスオイルに加えエンジンオイルが研究対象油となった。
油を扱うのが本職ではないが好きで始めたことだ。
独り言 : ここ数年仕事が忙しく、エンジン飛行機をやってねぇんだが、歳のせいなのか気力が減退してるような気がする。エンジン飛行機作りてぇ〜・・・・・エンジン飛行機飛ばしてぇ〜・・・・・心底やりてぇ〜・・・・・
(4)整備学校2
独学で学んだ知識は存分に発揮された。若い先生が質問に詰まったりした時は先生の代わりに教壇に立つことが数多くあった。おいらの信条が判り易くなんで、この当時から生徒が解る言葉で教えた。習っている生徒は卒業するまでは素人である。そんな素人に専門用語使って説明したって理解するはずも無い。
ある時、仲良くなった工具屋の息子が来ない。遅刻するが休んだことの無いヤツだ。何かあったかと直感した。他の皆は楽観視していたが、おいらの感は当たる。
案の定事故を起こして救急車で病院に運ばれたと学校に連絡が入った。人間何か起こる前兆が必ずある。おいらはそれを察知してヤツに注意していた矢先の事故だった。
今のようにヘルメットの装着義務は無かったが、おいらはヘルメットをかぶって通校していた。ヤツは洒落っ気があって毛糸の帽子をかぶって通校するのが常だった。
ヤツは結構飛ばす方、ヘルメットを持っていたのでヘルメットをかぶれと年上の先輩として注意していた。その日だけヘルメットをかぶっていたのだ。
後日ヘルメットを見せてもらったが二度とかぶれないほど損傷していた。かぶっていなかったら確実に頭に損傷を受けていただろうし、死んでいたかもしれない。
命は助かったが大問題が発生した。このままで行けば出席日数が足りず卒業が出来ない。卒業出来ないと言う事は整備士の免許が取れない。ヤツは諦めていた。ヤツは一人っ子。ヤツの両親とも懇意にしているのでヤツに対する両親の思い入れも良く理解していた。
おいらが一肌脱ぐことになった。おいらのカローラでヤツの家を経由して学校に連れて行くことになった。
ヤツは無事に卒業、三菱自動車系列のディーラーで整備士となった。二級整備士の資格も取り頑張っていた。そして後に実家の工具屋を継ぐ事になる。
ヤツから工具の知識をかなり吸収した。当時工具はかなり高価なものだった。
最も尊敬する親父とお袋に感謝しつつ、これで一旦昔話を終わりにしようと思う。これからいよいよおいらが創る油の不思議を話すことにしよう。先ずは切っ掛けから行こうかな・・・・・
(3)CB750-K0と俳優
ある時、バイク雑誌を読んでると売買欄のバイク売りたしに手頃なヤツを見つけたんだ。走行距離は忘れたが、そんなに走ってなかったと思う。ヤマハAT−1白色だ。
場所は世田谷。とりあえず見たいと連絡を入れた。おいらが一番乗りだ。日時を約束した。
学校の何人かとカローラに乗って見に行った。程度は抜群に良かった。価格は九万五千円だった。価格交渉は何もしなかったが、五千円まけてくれた。
折角来てくれたんだからお茶でもと家に案内された。最初気が付かなかったが、何かとてつもない金持ちの雰囲気がムンムンした。兄貴が色んなバイク持っているってぇんでガレージを見せてくれた。
お母さんも付いて来た。CB750−K0が2台、古いBMW/RS650が1台とよく判らないモペットやら何やら10台位あった。四輪はガルウイングのベンツ300SLが1台、お母さんがロールスを今修理に出していると言った。
この家、おいらに覚えがある。でも思い出せない。
家の中に案内された。玄関にはコンバースが数足無造作に置いてあった。金持ちの定番、紅茶とケーキが出てきた。明るいところで見るお母さんは、とても品があった。息子さんももの凄くいい男。今で言うイケメンだ。絶対知っている家だ。だが思い出せない。どうしても思い出せない。
商談が終わり、歓迎してくれたお礼を言い、帰り支度をした。バイクを受け取り、仲間が陸送でカローラに付いて来る。大きな家なのでグルっと周ってみた。
もう一つ玄関があった。
表札が出ていたので見た。全て思い出した。東宝の俳優夏木陽介の実家だったのだ。以前何かの用で近所を通りかかったんだ。そしたらノーヘル(当時はOK)でCB750−K0をえらい勢いで走らせてるヤツがいた。そのヤツが俳優夏木陽介だったんだ。もの凄くいい男だったのと、綺麗なブルーのCB750K0だったんで強く印象に残った。
その後、一回も行くことはなかった。
働くようになったらCB750−K0に乗ろうと秘かに思った。
(2)整備学校
次の日ギターの相棒がヤツの家(貸本屋は廃業していた)に来てくれとのことなので向かった。ヤツの親父が待っていた。いい学校を紹介するんで、これから一緒に来てくれとのことだった。
着いた所は職安だった。労働省が管轄する整備学校があるんで、入試手続きをしてくれとのことだ。当時の職安は汚ねえ木造の建屋だった。手続きが終わった。
ヤツの親父さんには本当に世話になった。この親父さんのしてくれた事は、おいらの人生に多大な影響を与えてくれた。この親父さん59歳で亡くなられているので何も恩返しが出来ていない。とても残念だ。おおっと感傷的になっちまった。話を戻そう・・・・・
入校試験が来た。筆記試験はそんなに難しくなかったが、面接でドキッとすることを言われた。大卒はねぇって一言。整備への夢を情熱的に語った。最善を尽くした。
合格発表だ。無事合格した。一年間大好きな整備を学ぶんだと思うとゾクゾクしてきた。
この学校、今は禁止となっているが、当時は車やバイクでの通校が許されていた。最初は公共の交通機関を使って通校していたが、慣れてくると車で通校した。バイクで通校してくるヤツも結構いた。
おいらはバイクを大学一年で降りてバイクを売ってしまっていた。
毎日バイク通校して来るヤツ等を見ているとムラムラしてくるのを感じた。我慢出来ずに、その中の一人に声をかけた。久しぶりのバイク話に花が咲いた。こいつはおいらより八歳年下だが、感じのいいヤツだ。実家は工具屋だと言う。こいつん家には学校の帰りによく遊びに行った。
こいつと付き合えば付き合うほどバイクに乗りたくなってくる。
(1)経営者への憧れ
高校時代から経営者の伝記モノをよく読んだ。特に本田宗一郎氏の著書や氏に関わる本はほぼ全てと言っていい位読んだ。
凄い人だ。
ソニーの盛田昭夫や井深大氏関係の本も本田宗一郎氏ほどではないが読んだ。松下幸之助氏の本は「ものの見方考え方」一冊しか読んだことはないが、とても役に立った。
大学を卒業後、会社経営には技術だけではなく営業力も必要と考え、商品的に売ることが難しそうなモノでおいらが好きなものはないかと探したら、ピッタリの業種があった。
この時代では珍しい犬を販売する会社があった。入って三ヶ月位で倒産してしまったが、いい経験になった。
働くところが消滅。家でブラブラしていたら、大学時代世話になった建設会社をやってる叔父貴から将来、後を継いでくれないか、ついては叔父貴の建設会社に入社して業界のことを知って欲しいとのことだった。
とりあえず責任が生じるので、一年間働いて結論を出して良いかと条件付で働くことにした。建築は好きだが土木が馴染めなかった。十ヶ月働いたところで、叔父貴にどうしてもおいらに向いていないから辞退させてもらった。叔父貴は渋ったが、何とか納得してもらった。
又、浪人生活が始まった。近所に住んでるバンドの相棒に相談した。夜の耽るのも忘れ色々なことを話し合った。結論が出た。おいらはエンジンに関する仕事が一番向いてると言う事だ。
朝七時になっていた。